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星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

三大秘法と戒壇の歴史

三大秘法と戒壇の歴史 (堀日亨猊下を囲んでお聞きする)

【小平】 今晩はお忙しいところ、叉お疲れのところへお伺いして、いろいろと御質問できる機会をお興え下さいまして、ありがとうございます。どうか、よろしくお願いいたします。
 今日の論題は三大秘法を中心にして、特に釈迦佛法における戒壇と、末法に建立される戒壇等についてお話願いたいのです。


【印度の受戒の儀式】

【小平】 まず第一に、三大秘法の意義について、お願いしたいのでございますが、釈迦佛法との関係、そういうことについてお願いいたします。

【猊下】 これは何ですね。小乗仏教が、根本佛教として佛教の初めですからね。その小乗教でも戒・定・慧の三學というものを立てるんです。戒・定・慧の三學というのをいろくな実行に応用するとき、三大秘法が立つわけです。
 小乗佛教の方では、戒・定・慧といいますけれども、戒・定・慧というものが、一々実行的なものであるから後にできた新興佛教の方のは小乗佛教の戒・定・慧とは、方向が違っている感じですね。小乗佛教の戒・定・慧というものは、その人の実踐修行の上に立った一つの名目です。だから似ているのは戒壇だけです。むしろ戒壇は小乗佛教の祗園精舎の戒壇というものが、すべての小乗佛教から権大乗に移り、権大乗から実大乗に移り、迹門の戒壇に移る根本です。小乗佛教も大乗仏教も、また大聖人の本門の仏教も、戒壇ということになれば同じですね。ただ、いくらか略な式と、仰々しい式と、その区別はありますけれどね、やり方は同じと考えてよい。

【小平】 その、戒壇といいますと、授戒をする場ですね。

【猊下】 そう、授戒をする道場ですね。それが唯授戒をしても、実行的のものですからね。場所を撰ぶとか、方法を厳格にするとか、または、そこに列する、戒を受ける人の資格、戒を授ける人の資格、そんな区別が時代々々によって違ってくる。これは小乗佛教からこないとですね、ほんとうに戒壇の説は迹べられないのです。小乗佛教が根本ですから。
 ですから、それが今度は受者の方からいうとね、資格がヤカマシイ。戒を受けるということは容易じやないのですよ。大概な人は失格する。そんなにこの授戒ということは厳格なものであって、釈尊のお弟子じやからみんな授戒を受けるというわけじやない。受けるだけの資格を持つていないとだめだった。

【辻】 その境目はどういうところにあるのですか? 

【猊下】 その資格というのは、こういうわけなんです。戒を授ける方の人はですね、和尚とか、阿闍梨とか、そういう特別な信望のある僧侶がそれに当たるのです。お釈迦さんがやるんじやないのです。それはね、戒を受ける人があってもね、釈尊がわざわざその土地に行って、戒を授けるということは容易じやない。廣いですから。その地方々々の、ひどく人望の高い、智慧の深い僧侶が、この和尚になり阿闍梨になり、そしてやるのです。三師七証などが居て証明しなければならなかった。

【池田】 受戒を受ける時には三師七証の方から……。

【猊下】 三師七証が取次がなきや、なんない。そうして、戒を受ける資格というものを証明する。どういうことを証明するかというとですね、「お前が戒を受けようということならば、お前さんはその、どういうこれまでの行体をなしたか。親孝行をしたか、親不孝をしたか。(笑聲)近所のおつきあいをよくしたか、あるいはその、法律に触れるような悪いことをしたか」と。国法に触れるような悪いことをしたものは、資格がないのです。親不孝したものも資格がないです。そんなに資格がめんどうですよ。それを七人の証明者が立会って調べるのですね。

【池田】 調べるのですか?

【猊下】 調べる。

【辻】 指導監査だよ。(笑声)

【猊下】それがつまりですね、授戒の始まりでしてね。ですから誰でもその、頭剃って袈裟かけてれば授戒を受けられるというもんじやないのです。

【辻】 今は簡単だねえ、出張御授戒だなんて。(笑声)

【猊下】それが、だんだんと授戒の方が簡略になってね。今では授戒に失格する人はないようになった。
 戒壇というものはインドでは土壇ですね。土を高く盛り上げて、そこにまあ、白堊、白い石灰をぬってきれいにし上げている。又は牛糞をさらして、それをしくとかした。あつちじや牛糞ちゆうのが尊いのです。印度ばかりではない、蒙古あたりでもそうです。牛糞が臭くないのですよ。土の上に牛糞をしいて、白堊ですね、石灰などをすつてきれいにしてやった。土だと汚れますからね。

【龍】 そうしますと、その戒壇へ上って授戒を受けたのですか?

【猊下】 そうそう、それからこの戒壇にはですね、佛様はないんじや。インドはね。戒を受ける人を守護するところの四天王をおいた。三重段の……こう三段になつてますからな、四方から三段になって、上つてゆくと上に四方の隅に、、四天王の像を安置してある。四天王は、授戒の守護をする人である。

【辻】 どっちを守るのですか。受ける方ですか、授ける方をですか。

【猊下】いや、どつちもです。

【辻】 儀式を守護するわけですね。

【猊下】そうです。

三大秘法と戒壇の歴史(2)
 【小乗の戒と大乗の戒】

【池田】 それであの、小乗の戒、権大乗の戒、それから迹門の戒、本門の戒と分かれるわけでございますね。

【猊下】ええ、そうそう。

【池田】 小乗の戒で、次に今度は権大乗の戒を受けるような場合は、どういうふうな段取りになるんでしょうか。

【猊下】権大乗の戒になるというと、四天王が変つてね、仏像になる。

【小平】 主に何の仏像ですか?

【猊下】 そうだね。大概はお釈迦ですね。(笑声)お釈迦ですけども、釈迦がですね、経によって本体が違うでしよう。権大乗なら権大乗即する釈迦仏。

【池田】 劣応身なんでしようか、まだ権大乗の場合には。

【猊下】権大乗の場合の釈迦は、つまり他受用報身の釈迦もあるね。華厳あたりのね。

【池田】 勝応身なんかは……。

【猊下】勝応身の釈迦を置くことがあるですね。それからその、仏像を置けば仏像が戒を授ける主体になる。それを取次ぐのがその経の教主という側です。つまり今いうと、各宗の管長みたいなもんです。それがその、仏像から秘密の命令を受けて戒を授けるのです。自分が授けるのじやない、仏像の命今によって授けるということです。

【辻】 取次ぎ役ですね。

【猊下】そうそう取次ぎ役。通教は佛の命令じやない。和尚なら和尚・阿闍梨なら阿闍梨というのが、じかに戒を授けるのです。
そこにその、大乗と小乗との戒の、授ける人の資格が違ってくる。それから、また、受ける方の側からいうと権大乗以上の方は小乗佛教のように、資格が厳格でない。それは大乗になるに従って、懺悔という法が有効になるから、懺悔の功というものが、大変広大になる。小乗佛教じや懺悔なんかしたつておっっかないですから、国家の法律みたいに厳格じや。悪いことしたら、どこまでも悪い。
 それから、そういうふうで、佛教が西にも東にも弘まってくると、佛教の弘まるところの國の法律を参考にしてですね、いろいろな変わった制度ができてくる。そういうようなわけですから、戒壇の形だって違うのです。祇園精舎の戒壇は、祇園精舎という大きな伽藍ができて……伽藍といっても日本のとは形式が違うですかね、インドの伽藍というのは、佛像を祭るところじやなくて、坊さんの集るところじやから……その伽藍の一隅に戒壇堂があるのです。
 それから、戒を受けるのは段を上って、一人づつ受けるですね。そして、三師というのは、段上に上って授ける。それから七証という証明者は、このふちにおって…。

【池田】 ああ、そうですか。

【猊下】そこにですね、いろんな他の人は入れない。受ける者と、授ける者と、証明する者と、それだけでね。

【池田】 何かいただくものがあるんでしようか。受ける場合に。

【猊下】何にもないです。

【小平】 いただくものがない代りに、守るべき戒律というものがあり、小乗ではヤカマシイ、大乗だと少しゆるくなるというわけですか。

【猊下】ゆるくなるというか……何ちゆうたらいいかな、ゆるいという方もあるが、小乗は煩瑣的のもんでね、細かく小さなものだ。大乗の方は要約している、大きくなっている。そこの違いがある。ですから、大乗になってくると、お酒を呑んで暴れたから、などということは問題にならない。
小乗じゃそんなことが問題になる。いっ、この男は、どこで酒呑んで暴れたか、なんていうと、もう資格がなくなっちゃう。親に向って悪口を云ったからというと、もうダメだ。

【龍】 じゃあ、我々はダメですね。

【池田】 ダメだよ、もう。(笑声)

【猊下】小乗の資格からいうと、現代の人はみんな失格じゃ。(爆笑)ほんとですよ、戒壇に上れない。

【辻】 キリスト教以上ですよ。

【猊下】しかし、それがですね、戒壇というものの始めですからね。その戒壇も初めはなかったんですよ。だんだん後になって僧侶の、僧伽という数が多くなって、中には反則者がでる。これでは佛教の名誉を傷つけるというので、その資格を選つたのですね。そして儀式を厳格にした。初めはそんな儀式なんかありやしない。

【龍】 それも釈迦の在世の頃からですか。

【猊下】そう、在世から。

【池田】 三師七証の儀式というのは、権大乗の戒の場合も同じくあったんでございますね。

【猊下】いや、三師七証ということは定まってなかったですけれど、それらしいものがあったですね。戒を授ける人と、証明する人があった。それが、インドのように國が廣くなって、それから支那ではそうとう廣いですけれどもね、初めその支那で、長安あたりで授戒をする時は、國は廣いけれども、支那が全部、佛教国じやないんじやから。ですから、長安とか洛陽とかいうような都の中が一劃になってね、長安なら長安の中の大きな伽藍の主人が、佛様から戒を取次ぐことになっていた。

【ヤカマシイ戒律はこうしてできた―――】

【小平】 そうしますとね、鑑真ののも、やはり……。

【猊下】 ええ、鑑真という人がですね、ほとんど支那で戒を授くる初めです。その前もありましたけれどね。支那の後漢に儒教が入って、それから三国に及んで、三国ら六朝時代に及んで、六朝時代の初めあたりは戒がなかった。戒がなくってやはり、僧侶の制度というものが揃わないで、僧侶の方が何んとなく、尊敬されて朝廷に對して威張っていたのです。尊敬されて威張ってれば、どうかすると悪いことをする。悪いことしてダラシナクなってきたらしようがないというので、授戒ということを、小乗律に順して始めたのです。ですから儒教が入って戒律というものが厳格になったのは、そうですねえ……後漢から三国、呉代とくるんですから、その間、五六百年もあるかねえ。そしてこの鑑真なんて人が、今の戒律の、四分律とか、五分律とか、または、その他いろいろの律法を参酌して、それを支那の権大乗の儒教に応用したのですね。応用したけれども、それを五分律や四分律の、インドの佛教にぴったり合せるというと、ほとんど授戒に適する僧侶は支那にいなかった。ですから、その検査はゆるやかになってきた。

【池田】 釈迦一代を通しまして、授戒を受けた数つていうようなのは、全然記録にはないんでしようか。

【猊下】ないようですねえ。

【池田】 授戒を受けた資格の者と、受けられなかった中でも、僧侶の資格を持っておった者は、おったでしようか。

【猊下】僧侶の資格はあるです。あるですけれども、だんだん乱れてきた。一体、戒律というのは釈尊時代だって、初めからあったんじゃないですよ。

【池田】 はあ。

【猊下】だんだんダラシナタなったから、戒律で取りしまりしたというのです。五戒でさえも、初めからあったんじゃない。五戒というのは別にその佛教によってできたんじゃない。支那の仁・義・礼・智・信と同じこつて、國法でそれだけの取りしまりをしないというと、人間が勝手なダラシナイことをするから、法律でもって、それだけの道徳律を定めたんじゃ。佛法でもそうじゃ初めは何もありゃしない。唯、心を清浄にして、そして、清浄なる着物を着る。そして、余分な必要のないものは何一つ座右に置かない、手に持たない。三衣一鉢、というように定めたのは、それは形だけは定まったけれどもね、精神的や秘密な行いの上にはそれが任意ですからね。取締りがなくて任意にしてあったから、僧侶でありながら、僧侶のなすまじきことをなすものがでてきたからですね、戒律がだんだん多くなった。二百五十戒なんて初めからありやしない。

【池田】 在家は、全く、その……。

【猊下】 在家は五戒ですね。それから、少し高級になってくると、十戒とか八戒とかという。五戒の上にそういうことをするけれども、ふつうの在家でなくて、よほど僧侶に近い行いをする人に、この八戒とか十戒とかいうことがあるのです。それは在家に限らず、僧侶の具足戒というものを受ける前の、まあ今の日本佛教でいえば所化ですね、学僧ですね、学生、所化、そういうものがですね、五戒だけでは普通人と同じで、あまりそろわないから、その上に三戒を殖やして八戒にする、五戒殖やして十戒にした、ということはですね、ほとんど、インドからそういう式があって、八戒とか十戒とかいうことが、支那でもだんだんと廣がってきたですね。つまり、五戒の方は普通人で、野蛮人でさえもどうかすると五戒くらいの戒は保ってますね。それが國法というものがなくても自然であった。それだけではあまり普通人と同じですから、僧侶としてはその上にまだ具足戒、二百五十戒を受けるに適しないような修行の進まない所化に対して、八戒や十戒というものがあったのです。要するに、寝るのでも高い寝台の上には寝ないというような。

【池田】 困るねえ。(笑声)

【猊下】それから、歌舞音楽ですね。好んて歌舞音楽を聴かない。聞くことさえも嫌ってあるのですから、自分で歌うつちゆうことは、もうだめだ……。(笑声)

【辻】 それじ、やもう窮屈だ。(笑声)

【猊下】窮屈ですよ。


【風俗の相異と戒律の変化】

【池田】 はあ、そうしますとですね、小乗の戒壇にしろ、権大乗経の戒壇にしろ、釈迦が命じて作ったんでしょうか。それともその、国の責任者とか、または釈迦の一番信頼しておる坊さんとか……。

【猊下】いや、役人は佛教にはあまり関係しない。関係しない代り、その佛教の中の主な人がね、国法というものを鑑みて、そして、佛教の法律をまた殖やしたのです。風俗や國民生活の相違からも、その内容は段々変ってきたわけです。

【池田】 はあ、そうですか。戒壇を建立させたのは、やはり、佛様が命じて……。

【猊下】 いや、それはね、戒壇は建立するけれどもね、僧侶には財産がない。金銭を持つことができない。金銭に替える物を持つことができない。ですから、袈裟衣を質に置くことができない。その袈裟衣を、高貴なもの、インドでいえば、カシミヤですね、カシミヤあたりの國でできた毛織物で作った袈裟などは、どうかすると高額ですから、売ることもできれば、一般の人が利用することもできるから、そういう毛織物とか絹物とかは禁じてあるです。

【池田】 ああ、そうですか。

【猊下】それで、その、墓場に捨てた布、インド人は人が死ぬと、死骸をすぐ木綿で捲いて墓場へうっちゃる。そうすると、そこへ血がついたり油が滲んだりして汚なくて、一般の人はどうすることもできない。それを洗って染めて袈裟にするんですね。ですから、それは、もう、誰も質に取る人はありゃしない。(笑声)それから鐵鉢は……托鉢にゆくときのね、鉄鉢だと金製でしよ、金製だといくらか、百匁かいくらかづつになる。それじゃ、ものになるから、インド人の小乗経の坊さんの鉢は瓦鉢です。

【池田】 ははあ……。

【猊下】 売ったって買手がないです。カワラの鉢。それが瀬戸物で精巧にできてるものは禁じてある。

【辻】 なんの価値もないものを…。(笑声)

【猊下】そう、価値のないものを清浄としてある。人間の愛欲のあるものは不浄としてある。

【池田】 価値論はダメですね。(笑声)

【辻】 猊下の家はあまりに立派すぎるというわけですね。(笑声)

【猊下】ええ、小乗教には向かない(笑声)自分が好んで家をこしらえるなどというのは、小乗佛教では嫌う。反則です。(笑声)
 小乗佛教と大乗佛教は自然にですね、明らかに何年何月からどうなったということは云えない。次第々々にそうなってきた。小乗佛教の中に、随方毘尼というのがありましてね、処が変れば、食物が変る着物が変る、すべてが変るんですから、それをですね、どこまでも、熱帯國の風儀を寒帯国にもっていったって、ちょいと、そいつはできないですからね。

【池田】 随方毘尼の戒というのは小乗佛教にあったのですか。

【猊下】ええ、小乗経からあった。小乗経から始まつたんですがね。印度人は素足でしょう、下駄をはかないでしょう。それがもう西域地方からヒマラヤ山の周辺に行くと生活ができない。だから靴をはくこともできる。それから、袈裟は一枚のものですがね、五丈と七丈と十五丈と、まあ丈数からいくとそうなりますがね、それを寒けりや三枚重ねることもできる。

【池田】 受戒者は年齢には何にも関係ないんですか。

【猊下】 年齢には関係がある。子供は受戒できない。成年の程度は國々でいくらか変りますがね。印度は成年になるのが少し早いです。結婚するのは十二、三歳でどんどん結婚するんじや。それほど、支那や日本よりも早いです。早熟の國ですから……十二、三歳が成年になるわけです。ただ律なんか、十五、六歳になっていますね。

【池田】 尼さんも同しですか。

【猊下】ええ、尼さんも同じ、女はどうしても厳格な行いができないですから、男は二百五十戒ですけれども、女は五百戒になっている。(笑声) そうしなくちや、おつつかない。こまかい悪いことをするから。(笑声)

【龍】 罪が重いんだからな。

【池田】 男は二百五十戒、女は五百戒ですね。

【猊下】 そうです。

【池田】 倍です。(笑声)

【龍】 在家は授戒を受けなかったんですか

【猊下】在家は受けない、在家は五戒じゃ。五戒を公けにもち、もっと立派に持つときは八齋戒などをやつたのじや。

【戒を受ける目的は……】

【龍】 戒を受ける目的はどういう……。

【猊下】戒躰をうるというのが目的じゃ。戒躰をうるということはね、つまり偸盗戒なら偸盗戒の戒躰というものを身体に具えるとね、どういう場合でも、盗みをするという考えが身体に起らない、肉体として起らない。これが戒躰じゃ。心のみじゃない身体そのものじゃ。骨から肉から全部がそうなる。

【辻】 へえー、革命ですね、人間革命ですね。

【猊下】 革命ですよ。それでなくちゃ、戒躰の必要がない。ただ、心でもって、こういうことをしちゃ悪いというのが戒躰ではない。この指が殺すもとになるとすれば、殺生戒という戒躰をうるとね、爪でシラミも殺せない。

【龍】 殺せなくなっちまう。

【猊下】ええ、なっちまう。

【龍】 うわー。

【猊下】爪がいうことをきかなくなる。(笑声)そこに戒躰の必要がある。

【龍】 それじゃ、随分やかましいですね。

【猊下】やかましい、それですから戒ということは、とっても厳格じゃ。

【池田】 破ったものの罪はどうですか。

【猊下】 破ったものは擯出といってね、教団から除名される。そして一役の人は、その人とつきあいをしなくなる。

【辻】 教団八分だ。

【池田】 ああ、そうですか。

【小平】 解脱堅固なんていう時代には、やつぱり、そういう戒をうけると、ほんとうに、そういうようになったのでしょうね。

【猊下】そうそう。約千年ぐらいは、その戒がどうやら、こうやら、保たれたんですね。二百五十戒や、小乗戒がね……。

【池田】 戒をうける、戒を授けるというのは、実際どうやるんですか、経文か何か読むんですか。

【猊下】経文を読むということはないですよ。小乗佛教では経文なんか読まない。

【池田】はあ。

【辻】 薬飲んじゃうみたいになっちゃうんだなあ。(笑声) 本人は変っちゃうんですね、戒をうけると。

【猊下】ああ、変っちゃう。

【池田】 ちよっと、考えられないようなことですね。

【猊下】それがですね、受けさえすれば誰でも戒躰をうるということではない。戒躰をうることができない人もおる。だらしなぐてね。(笑声)

【小平】 今はダメでしょう?

【猊下】今はダメですよ。(笑声) 戒躰なんてね。

【小平】 酒を飲んじやいけないつて。そんなに、昔は酒を飲んで失敗したんですか。

【猊下】それは酒が少かつたから。

【小平】 ははあ――。

【猊下】 酒が貴かったから。

【小平】 何から作る?

【猊下】 穀酒と果酒の両方あるんじや。だから栗とか米とか穀物によって作る酒と、それから、果物によって作る酒と。

【龍】 はあ、葡萄酒もあるんですか。

【猊下】ええ、葡萄酒もある。(笑声) リンゴ酒もある。それから、お釈迦様時代にも果物の汁、ジュースみたいなものね、そういうものがある。それはですね、ジュースみたいな葡萄からしぼったものですね。葡萄からしぼっても、そこに酒の気があるとダメだ。酔わないジュース、酔わない果物の汁、それは公けに飲むことを許した。殆んど酒の気分があるというと、飲むことを禁じてある。これまた、むずかしい理窟がありましてね、どうして試験するか、などという理窟がある。(笑声)

【小平】 アルコール分があっちや、いかんのですね。

【猊下】ええ、いかんです。

【慧に勝れた人、羅什三蔵】

【小平】 三蔵教の場合は戒が本体なんですね。

【猊下】戒定慧の三学の方からいうと、小乗教では戒が主である。

【小平】 それで、通教・別教となりますと、定……。

【猊下】ええ、定。定が主になることもあれば、慧が主になることもある。

【小平】そうしますと、五戒・十戒・二百五十戒を守るということが、ゆるくなるわけですね。

【猊下】ええ、ゆるくなる。ゆるくなるから、印度西城地方からですね、支那に佛教が入ってくるとき、戒というものが伴ってこない。羅什三蔵などは子供時代から学問としては偉い人であった。戒定慧の中には慧が強かった。羅什三蔵に限らんですね、西域に生れて、印度で学問をして、また西域に帰って支那にきたなんていう三蔵たちがたくさんある。その人たちは、どっちかというと慧が強かった。ですから、羅什三蔵もあんなに偉い人だけれどもね、戒がゆるかった。その当時は西域から、今でいうと外蒙古からダッタンあたりですね、支那の将軍が、ずっと向うに入っていたんです、ちようど、六朝時代で、羅什三蔵が偉いという評判がたっているんです。そしたら馬鹿に歓迎してね、自分の娘を羅什三蔵に送った。そういう偉い人の種を残さなければ、もったいないというのですね。(笑声)それで羅什三蔵は平気で國王の娘と同棲した。それは一人だけどね。それは、支那のですね、符堅なんという将軍が、印度に攻め入ったときの時代なんですね。その後、今度は符堅を亡ぼした挑王萇というのがいるんです。その人について長安にきたときは十人の官女を羅什三蔵に送った。光栄の至りだね(爆笑)若い別嬪が十人もおった。子供も生んだろうけれどもその子が何というのか、ちよっと歴史にはないけれども、そんな状態だった。
 それで羅什三蔵は戒には関心が乏しかったけれともね、精紳的には、僧侶が婦人に接しては悪いという観念が強かったんですね。それですから、あの人は堂々たる伽藍には住まなかった。自分のいるのは小屋みたいな、狭い、きたないところにいた。それでいて弟子は何千人という門下があったんです。つまり現代の管長さんとか貫主さんとか、そういう宗門の中の清浄なる立派なる生活をしていたんじやなくて、住宅もきたないし、それから袈裟もきてない。袈裟は清浄服ですから、マンゲといってね、條用のない横縦のアゼのない、ノッペラボウの布をかけている。條用が功徳ですからね、條用というのは、っまりあれは田のアゼに譬えているんです。田にアゼがあって水をこめるから、真中に米でも栗でもできる。條用がないというと、しまりがないですから、水が逃げ出すとかなんとかでね。田の畝(うね)の間に米ができない。だから、ノッペラボウの袈裟というものは、功徳のない無功徳の袈裟である、ただ実際におおっているものにすぎない。そんな遠慮そしてござった。
 それで器什三蔵が死ぬときですね、自分は、こういうふうな放らつな生活をしている、けれども自分の飜譚したところの法華経は立派なもんだ。故に自分が死ぬときは特別な蓮華がでるといわれた。そしてその通り舌の上から青蓮華が生じた。

【辻】 ああ、自分の身は不浄だと。

【猊下】だけれど、自分のやったところの仕事は立派なもんだと。

【池田】 法華経の結教の普賢経を譯した、曇摩密多なんか、どうなんですか。

【猊下】ああ、無量義経や普賢経は羅什三蔵が訳したんじやないです。法華経だけが羅什三蔵だ。それは、あの時代に訳経三蔵が多いですから。六朝時代には、とっても訳経三蔵が多くてね。それから、ずっと唐になって訳経三蔵が滅った。

【池田】 経典を訳すような人々は大概、羅什三蔵のように戒をゆるめたんですか。

【猊下】ところが羅什三蔵の仲間がある。支那は一般に仁義礼智信、行儀作法の立派な國ですからね、僧侶というものを、それ以上に尊敬する國だ。中に、尊敬する価値のない坊さんができるからね、隋あたりから、律が復興したんだ。鑑真なんかが律をおこしたのは、それなんだ。僧侶の価値を高めるためにね……。

【定に勝れた人も居た】

【小平】 定の力をもった人もいたのですか

【猊下】ええ、定の力をもった人もその中にいた。それはですね、もう殆んど、どのようなことがあっでも、身体がすっかりきまつていて、悪いことをしようと思ってもしない、戒の結晶の戒躰をえた……。

【池田】 戒がもとですね。

【猊下】戒がもとになって定をえた。

【池田】 ああ、定襌、無漏禅……。

【猊下】それを少しまねたのがダルマ禅。

【小平】 やっぱり、定は呼吸を整えて……

【猊下】それは、あながち定によつたんじやない。呼吸を整えるということはね、定だけれども、小乗佛教には必ずある、普通の生活に行うのだ。それは坊さんだけじやなしに、印度人の中には、そういう生活をした人だっている、今でも餘類がヒマラヤ山あたりにいる。

【小平】猊下はそういうことは、おやりになった……。

【猊下】わしもやろうと思っていたけれどもね、あまりばかばかしいから、やめた。(笑声)数息観ということをいっているだろう。数息観というのは出入の呼吸を勘定するんだね、そして一日に何時間かそのやり方をやらんけりや効めがない。日本でいう、西式とか何とかという、そのようなことでは、おつつかないんじや。今でもそうして長生きしようというのが、はやつている。わしも今から二十年も長生きしようというんなら、やるけどもね。いや、もう、やらん、今からじや、おつつかないから。(笑声)

【辻】 息をして鼻毛を動かさないように、なんてやるんだね。

【猊下】そう、鼻をこう寄せて(ねじる)、ここから息をする。こっちを止めてね。よほど馴れなけりや、できないのですから、(笑声)時間が惜しいです。一日に十分や二十分ですむことしやない。(笑声)


【受持即持戒について】

【小平】 そういうことに関連しましてですね、受持即持戒なりという点はどうですか。

【猊下】それは、その説は強(あなが)ちにね、御開山に書いてありますが、御開山でなくても今の日蓮門下の他宗派にもある。

【小平】 日隆、八品派の……。

【猊下】 八品もそうですけれどもね、八品以外の日辨の門下にも鸞巣あたりのね、これにも、それがある。

【小平】 それは、受持することが即持戒、戒を持つ……。

【猊下】ええ、ああいう切紙の古説によつてみますとね、存外、宗義が透徹してないのがありますよ。なお宗祖・開山に書いてあつてもですね。それは、あまり、古い時代では、公開しなかつたんですね、どうも今からみると、もつと、なぜ先師方は、はつきりしないかという憾みがある。三位日順なんかの説が、それが多いですね。あまり実際についてですね、まだ時がこないからという考え方からして、もう殆んど充分に切りこんだ説をはいていないのが、いくらもあるですね。  

【辻】 あまり必要がないんですね。

【猊下】つまり必要がないんじや。必要がないのと、一つは宗教家というものはね、何といいますかな、相手次第で言葉をだすという、應病輿薬でね。それがあるんですから、古代の人は思う存分にいわなかった嫌いがあるらしいですね。それですから大聖人でも、三大秘法抄のように、はっきり戒壇説を打ち出したのは、他にないですね、戒壇という名称は使ってござるけれどもね。

【小平】 すると、日寛上人様の文底秘沈抄に、受持即持戒、だからといって小乗教の戒壇があるじやないか、それから、迹門の戒壇もある、だから本門の戒壇の建つのも当然である、と仰せになったことでよろしうございますか。

【猊下】ええ、それで良いです。


 【受戒の儀式は何時頃からか】

【池田】 大聖人様の門下でも、天台佛法や伝教大師より推して、常識としても戒壇について考えられなかったのかなあ、と思うんですけれども。

【猊下】それはですね、大体この時代は迹門の戒壇が乱れておった。それでも第一老の日昭などは、叡山の戒壇をふませるといって、大聖人の滅後、自分も行った。
 しかしこっちの玉澤に移ってからは、あんまり日昭門下だからといって、叡山に行って戒をうけるなんていうことはなかったね。日昭が叡山で戒をうけて、日昭の直弟子がそうしたといった程度でしょう。一っはですね、叡山に行って戒をうけるということは不便だったんでしょう。授戒が衰えちゃった。

【小平】 叡山がそういう状態だから、大聖人様の御門下だって、なおさら戒壇に對する関心がなかつたとはおかしい……。

【猊下】そうそう、それで大聖人の戒壇はですね、國立戒壇が主ですからな。

【一同】 はあ。

【猊下】 ですから、佐渡で例の最蓮房に受戒させたということはあるけれどもね、大聖人自身に、各地方で受戒させたという記録はない。ちょっともない、身延で授戒されたという記録もない。大聖人の戒壇はですね、もっと、この門下が廣くなって、そして、そういうような儀式をして、僧侶の行體を正しくするというような意味が充分にあってですね、皆新しい御弟子で相当に信仰をもって入ったんだから、殆んど受戒の必要がないというような思し召しであったかも知れない。それでお弟子の数も少いからね。ですから、時を待つべきのみ、ということになったんじゃ。

【龍】 では御授戒をする必要がなかったんですね。

【猊下】もう、授戒を受けんでも、よかった時代じゃ。授戒をうけてですね、戒定慧の戒をもととして、だらしないことをしないで、ぴったりと戒にはまるような、一つの規を作るようなことを、しなかったんじゃ。その方があるいは、いいかも知れん。(笑声)色でなく、精紳的に戒を作って、いたかも知れん。
 今じゃ、これと違って、私の考えでは、普通の授戒じゃなくてね、本山で堂々たる授戒をしてはどうだといったことがある。つまり、一つの戒壇の御本尊様を安置するところの道場があるんだから、道場の中に堂々たる事壇をこしらえて、そして大勢一しよにやらんで、一人づつ壇の上にのつけて、やったらよいと思う。
 私が本山へ登ったのが明治二十一年ですが、その当時御賓蔵で御授戒を受けたものは殆んど少かったですね。

【辻】 御賓蔵で?

【猊下】ええ。

【龍】 それは御僧侶だけですか。

【猊下】いや、御信者も。
 それから授戒を澤山やるようになったのは、日應上人の法道院時代からですね。

【国立戒壇の学説は……】

【池田】 日導や日統ですね、本山の戒壇説を知って唱えられたんですか、それとも、やはり大聖人様の三大秘法抄や何かの御書で……。

【猊下】ええ、綱要日導の綱要には、「時を待つべきのみ」という題号で、国立戒壇のことをいつてありますけれども、大石寺ということはいっていないらしいね。

【池田】 ああそうですか。

【辻】 国立戒壇というのは、やはり、国家の法律でできるものなんですか。

【猊下】国立戒壇は、それは、いろいろな段階がありますよ。つまり日本国において王佛冥合して政治上に本宗の正義を用いる場合にですね、まず手始めとして日本国に戒壇ができるでしょう。
 しかし大聖人の戒壇は日本国だけではないですからね。世界中の戒壇だから……。
世界中の戒壇となるとですね、日本だけが大聖大の佛法を一つの国教としても、支那が果して用いるか、アメリカが用いるか、ヨーロッパ各国が用いるか、それはわからない。全国が揃って大聖人の教義を遵奉するということが果してどうだかわからん。
日本が主になってやったからといって、外国がそれを真似するということは、歴史がそれを許さないじやないかと思いますね。
外国がまだ充分に大聖人の教義は信用しないけれども、日本はまず日本の国情として一般に差支えないというぐらいに、日本の国立戒壇は外国の如何にかかわらずできるだろうけれどもですね。それとまた時代の流れで、日本が正法に帰依するならば、外国もそれと同様に正法に帰依するということがあるかも知れん。ないとは云えないからね。
 それで三大秘法抄には、大梵天王、帝釈天王というぐあいに、印度人も戒壇をふむということになつている。他の佛法はそんなことはいってないね、日本なら日本の広宣流布もいっていないからね。

【辻】 梵天帝釈だと印度になりますか。

【猊下】ええ印度です。


【古代の富士門流では】



【小早】 古代の富士門流ではどんな記録が残っているでしょうか。第一に三位日順帥についてお願いします。

【猊下】三位日順は大本門寺主義だからね。大本門寺中心となると、大本門寺に戒壇が建つことになる。つまり大聖人の御主義が全國一般に透徹して、そこに大本門寺が建つことになる。伽藍がいくらか大きくなるから大本門寺というのではない。

【小平】 三位日順が本門心底抄に「本門の戒壇豈建たざらんや、佛像を安置すること本尊の■のごとし」と書いておりますね。

【猊下】あれですが、あれは、日順が天台で育ったんですからね、天台流が残っている。残っているけれども日順師という人はちょっと、愚だね。(笑声)
 というのはね、日順も叡山の戒壇といういのをぶんだでしょう。叡山の戒壇の本尊は何です、お釈迦でしょう、本命の■のごとしというようなたくさんの仏像なんか、他にありはしない。お釈迦一体じゃ、釈迦一体が後にあって、その前で座主が授戒をする。お取次をするときには座主がお取次ぎする。佛教の変遷を眺めてみてもですね、仏像を安置するのは、だんだん簡単になっているでしょう。叡山の四佛堂でも、いろいろの人がいっていることでもね、簡単になってきている。それを三位日順は簡単にしないで「御本尊の■のごとし」、そんな戒壇がどこにある! 印度から支那・日本にわたってですね、仏像をいくつも置いた戒壇なんていうものはありはしない。
簡単になっていろいろな式も簡略にされているところに、日順だけがコケシ人形みたいに並べようというのはどうかしている。

【辻】 だから盲になったんだ、そういうことをいうから。

【猊下】そいつは、まあ、どういう原因かね。どうして盲になったのかとはつきりいうわけにはゆかん。

【辻】 目があくのがほんとうなんだもの。

【猊下】あの人のは、特別にそれがありますね。それから、要集の編纂に当って、あの要集の中に編入してあるものは一々それが宗旨になり模範になるものばかりではないんですからな。最後には、その一書々々の■明をしておこうと思うんです。これは全部用いていい、これは、この中には純でなくて雑なものもある。正でなくて傍であると、そういうことを並べておいておかんというとただ放つているとね、みなおんなじに有りがたい御抄みたいに思われちゃ困るから。

【小平】 あの妙蓮寺日限の、五入所破抄見聞は今のお話の中でどれに当りますか。

【猊下】あの中にはですね、雑とか傍とかいうのは現れていないね。立派なようですね。ただ、そのいくらか足らないというところがあるね。足らないといっても、間違ったことがあるんじゃないからね。日順のは下らないものをもってきてある。「本尊の■のごとし」なんてね。(笑声)およそ意味ない。とても、狭い戒壇じゃ置きどころがない。

【小平】 そうすると日眼なんかは、戒壇や三大秘法のことについては、どういう考えなんですか。

【猊下】そうですね。眼師の戒壇については、あんまりはっきりした意見はないですな。ただ、その、大聖人が紅蓮華、日興上人が白蓮華、それから九山八海をめぐらして、どうこうといってありますがね。別に悪いということはないからその通りじゃ。

【小平】 「異名同体なり」なんてね。

【猊下】 ええ。

【小平】 その他、特に大石寺の方で、三大秘法や戒壇のことについて、御指導せられた方がおられますてしようか。

【猊下】そうね。

【小平】 日教?

【猊下】あの日教はね、半分は雑ですよ。
 要法寺で立てられた法義を、そのまま書いたのがありますね。百五十箇條なんていうのは、いかんですね。要法寺を嫌がっている筆は多いですけれども……しかし富士のことが明るいわけではないからね。富士にこないときのことはだめです。有師の門人になってから後の方はよいようだね。

【小平】 六人立義破立抄……。

【猊下】ええ、六人立義破立抄、あれは良いようですね。

【小平】 宗學要集の第一同配本が參りましたから、みんな、これに出ておりますから。そういうことを知らないものは、みんな、これはありがたいなんて歓んでおりますよ。(笑声)

【辻】 そう、みんな、そういうように■んじやうなあ。みんな純真なんだから。

【小平】 ええ、それで猊下の編纂なんだからというので。(笑声)

【辻】 堀猊下の編纂だからみんな■むよ。

【猊下】しかし緒言を■まなくちや困るよ。(笑声)

【龍】 中味だけ■んじやうからな。

【池田】信心が強盛だから、みんな信じちやうから困るね。(笑声)

【小平】日有上人は何か、このことについてお書きになったものはないですか。

【猊下】日有上人は不思議ですね、全然著書がないからね。古来から、日有上人の御條目といっても、あの中には日有上人の筆はないからね。御門下の南条日住の筆ですからね。

【小平】あの中には余りそういうことには触れていないようですね。

【猊下】触れていないですね。ただ宗祖本佛がいくらか、でてくるくらいなもんですね。それで大きなことを余りいっていなくてね、細い化儀のことをいってありますからね。

【小平】お勤めの仕方とか……。

【猊下】ええ、そうです。お茶をあげないで酒をあげるなんて簡単なことをね。これは、まあ時代の動きを参酌して変っていきますからね、ですから酒だって現代ではどうしますかね、あの時代の人は酒を主にしていますがね。ことに房州の例の日我なんていう人は酒が本意ですよ。『酒を飲む、その色赤し、信心の赤きを證す』なんてね。
 (爆笑)ちょっと過ぎるようだね、酒に飲まれておる。(笑声)
 酒が好きだったんですよ。あの人(日我)の書いたものには、立派な儀式のことにっいては、必ず酒がついている。(笑声)
 筆は細いですから、料理なんかのことまで書いてありますよ。どういうものを、こしらえて出したかなんてね(笑声)。その変わり、あんまり、うまいものは書いていないね。(笑声)


三大秘法と戒壇の歴史(14)

【本門戒壇の大御本尊】

【小平】 日主上人がですね、本門戒壇の願主のことについて、お書きになつているということを聞いておりますけれど。これは
どこに出ているのですか。

【猊下】日主上人ですか、主師のはですね、戒壇本尊のお寫しがある。それをいっているのじやないですか。

【小平】 はあ、御本尊様をそのままお寫しになった。

【猊下】そう。それとですね。よく擴がっているのは、本門戒壇の願主弥四郎國重とかいう、あの脇書きとかね。年次年代というようなものを書いたのは、ある。そういう寫しがある。

【小平】 それでは、ただ寫されたというだけで、著書の中には、それはない……。

【猊下】ええ、それはない。それから寺中のその時代の坊の並び方なんかね。そんなのがありますよ。
 先師方が、もう少しいろいろなことを委しく書いておかれればよかったけれども。

【小平】 そうしますと、やっぱり日寛上人様までは、はっきりしたそういうことを、それほどはっきりお書きになった方はない?

【猊下】そうです。それに、九代の間、法主が要法寺からきたんですからね。それが災いになったわけですね。要法寺からきた方に、いくらか書き物がありますけれともね。あまり有りがたいことはないんじや。
日精上人のように、あんなに、たくさん書いた方はあるけれどもね、キズが多くてしようがない。同じ歴史でも、もう少しくわしく調べて書いてくれれば良かったのだがね。わたしは精師の悪口をいうから、ある
いは精師の御罰をうけるかも知れないけれども。イソチキが多くてね。例えば日影師が油野浄蓮に相伝したなんて、そんな馬鹿なことがあるもんか。もし、あったのならどこの、どういうものによって書いたっていうことを書いておかなければならない。
 どこにあるということを書いておけば、まだ間違っているということがわかる。よりどころをくわしくして、しらべるというようなのでなくて、やたらと書かれたらしいね。
 よくありますね、弥四郎國重が日道上人を大石寺に移すなんてね。そんなことはないですよ。弥四郎國重ということはありますけれともね、それは道師とは闘係ないんじゃ。その弥四郎國重の字を、おかしくもつていつちゃった。まさか、道師あたりまで生きていたら、百九十になっちゃう。そんなこと考えられないことだ。

【小平】 身延の坊主が、今あれ専門だね。
日有上人時代に弥四郎國重という在家の信者がいて金持だった、それで日有上人にたくさん寄附したので、本尊に書き入れてもらったなんてね。(笑声)

【猊下】ああ、今そんな馬鹿なことをいいますかね。

【小平】 ええ、最近の學會對策の講習會ではそういうことを盛んにいっております。

【辻】 あのときに戒壇の御本尊様ができたというのだな。

【猊下】そりゃ、驚いたね。そんなことを馬鹿々々しく、……そんな阿呆たらしい人がおるかね。


【最近の学会批判】

【辻】 何か最近学会を批判した新聞があったね、堀猊下のこともでていた。

【龍】 日蓮宗新聞ですか。

【猊下】ええ、高佐貫長と稲田の記事か。

【辻】 ええ、猊下の悪口いってますよ、彼は……。

【猊下】稲田の方は、大石寺にきたことはあった。唯御書を見にきただけなんだよ。
それを堀さんとは兄弟同然につき合ったなんていっているが、親友だなんていうばかなことはない。要求する御書だけは見せたが、御本尊はとうとう見せなかったなんていってるが、見せものじやあるまいし御本尊を見せてやれるわけがない。(笑声)

【辻】 私たちが稲田を折伏した時に、謗法だといったら「なにッ! 謗法ッー」なんて怒りましたね。

【猊下】ほう、怒ったことは初めて聞いたね。    

【辻】 いや、カンカンに怒ったですよ。

【猊下】もっとも、あの人のおとなしいのはですね、頑固でそしてあまり怒りを包んで出させないという方でしたっけ。とても議論なんかしたことはない。同じ一致派でも島智良というのはね、祖山学院の教頭を永いことやってね。まだ若かったですがね。あの方は遠慮ない議論家でね、もう、しょっ中、わしと議論していたね。そしてあっさりしている、議論してもね。稲田という人は、とっても執念深い入らしいね。

【龍】 なんだかそういう感じの人ですね。

【猊下】それで何でしょう、今はとても天狗になっているんじやないですか。立正大學とも関係ないですからね。御言の編纂だって、あの男がやらんけりやならんのに、ちょっとも、やらん。御書のうしろに名前を列ねているけれどもね。、何も働いていないんですね。

【龍】 ある本屋さんに行きましたら、稲田海素が時々くるそうですが、そのとき、身延派発行の御書(全三巻)の一巻を校正しているが間違いが多くてしょうがない、これから二巻にとりかかる、なんていってたそうですが。

【猊下】 ええ、そういうことは偉いです。
そういうことは偉いけれども、御開山の筆なんかみるのは駄目ですね。御開山が書いた開目抄を日行という人がもってて自分の名を入れた。そんなことは、昔のにはよくありますからね、しかし御開山の文字と日行と字画が違う。そんなふうに日行と書いてあるのを、日興上人の開目抄の文段を日行だといっているのですからね。だから稲田はだめだ。

【小平】 どっちかというと、そういう変り者なんですね。信心の方は大したことないんだ、謗法だといわれて怒るほどの信心していないんじやないんですか。

【猊下】今だって鬼子母神を祭ってあるんだからね。鬼子母神をありがたいものにしているんだ。あまり、おさいせんもあがらないようですね。(笑声)

【龍】 ■にあれですね、お婆さんと二人で息子さんが役所なんかに務めていて、眼が悪いらしいですね、誰も相手にしないらしいですね。

【猊下】 若いものなんか、何知っているかという態度なんだ。それでいて、自分でも富士のことは何も知らんのだ。

【辻】 そういう態度ですね。あんなのに学会を批判する資格がない。


【目立つような學者がいるか】

【小平】 今日蓮宗の中で、目立ったような学者は、どんなのがおりますか。

【猊下】そういうのは、つきあわんから知らない。淺井要麟の弟子で執行海秀というのが、「日蓮宗教学史」という厚い本をこしらえた。望月歓厚が序文を書いている。
歓厚というのは会ったことがないけれどもね。執行という男も知らないですね。聞けば、わしが学校に雇われて講師をやっている、その時分の学生だといっている、別にこっちは知らないけれど……。

【小平】 学会對策では執行とか長谷川なんかが主になっているようです。

【池田】 実行委員長……。(笑声)

【猊下】 年寄りしかいないでしよう。もう年ですからね、わしからすると若いんだがね、

【龍】 執行は助教授。

【猊下】執行は助教授だろう、若いんだから。歓厚ですよ、年よりは……。

【小平】 ああ、歓厚か。

【辻】 あれは小樽問答ででる想定だった。

【龍】 宮崎はどうですか。

【猊下】宮崎は、わしは知っているけれどもね、宮崎という人は、わしのところヘニ、三度きたことはあるけれども、あまり口をきく奴ではないです。ただ波木井の論文なんか書いていた。

【小平】 山川智應は全然交渉がなかったんですか、交渉というよりも往来はなかったんですか。

【猊下】ないです。

【小平】 田中はないですね。

【猊下】 ないです。

【龍】 山川の本なんかには、立正大の教授に堀猊下が、こういった、あゝいったとか書いておりますけれども。

【猊下】それは話じやないかな……。わしが立正に行ったときはですね、学生は少くても教師連中が多かったです。しかし教場では、教師連中も聞いていますけれども、あとの控所での話が長くてね、大がい二時間くらい話したでしよう。別に難しい話はしない。それからまた学生なんかにも質問させない。

【一同】 はあ、

【猊下】 わしのいうままに聞いているだけです。控所で談論があると思うと、あまり議論はないです。わしだって一宗を代表してきているようなものですから、下手なことはいえないですね。又向うも、わしの腹をさぐるようなことをいう奴はなかった。
みんな穏やかな話ばかりで。由井一条という人が、しよっ中、わしについていた。


田中智學の戒壇論】

【小平】 田中智學なんかは、どういう考えだったんですかね。富士戒壇説なんか唱えて。自分は身延にお詣りに行っているくせに……。

【猊下】そうですね。あれが、どうもわからんです。あの人は策士だからね。富士戒壇をいって、北山を取り込むくらいのこんたんじやなかったかね。

【辻】 なるほど、そういうことが考えられるな。

【猊下】というのはね、大阪で大会があったんですね。あのときに大石寺からは誰も行かなかったが、要法寺から行く、北山から行くね、大分青年が行ったですよ。行くとすぐ若い連中が田中崇拝になってね。それから田中を崇拝する青年層が、北山がさびれていたからね、田中をもってきて、田中は山師ですからね、北山を立派にしてもらおうというのでね、連合して策動した。
今その人間が二、三残っているですよ、そして田中の方にきてくれっていったわけです、田中はそれで動いてね、やろうかやろうかということになった。そんなことが富士戒壇のもとなんですね。
 ところが、その青年たちの興論が、だめになった。というのはあっちの方で、要法寺から出た近藤勇道、あの男がつまり、その時代の本門宗の青年の支配力を集めている男で、近藤日義という。それに育年が相談にいった。相談に行ったら怒られちやった。「なんだ、貴裸たち、そんな馬鹿なこと、お前たちは富士の門徒じやないか。富士の教学を立てんけりやならない。田中みたいなあんな雑輩に心許す奴があるか。あいつは策士だから、何をやるかわからん。田中はインチキ野郎だ」なんて叱られちやった。それで、この運動はおじやんになっちやった。

【小平】 要法寺でも、そういうしっかりしたのを頼みにしたわけですね。

【猊下】 ええ、しっかりし過ぎて困る。■はその教義上の違いからきたのじやなくてね、行政上の恨みを應師にひどく持っている。

【小平】 ええ、日應上人に?……

【猊下】 その以前からね、興門宗制時代からね、大きな考えがあった。八山を下において、八山の上に興門の大学林を建てる金を集めた。なにしろ貧乏本山だからね、永いことかかって金をそうとう集めた。集める前に興門清規というものを作って、大石寺から一人、西山から一人、北山から一人要法寺から一人、優秀な青年僧を集めて、そしてその宗門の学校へやって、大学林を作るときは、その講師をつかうつもりでやった。随分金を使ったんですよ。とにかく披は策士でうまいからね、筆もたてば口もうまい、頭もいい、青年たちがゴマカサちやってね、大石寺の有名な人で、すっかりゴマカされちやったのもあった。その人があまり働きすぎるから、いろいろの人から擯斥っていうわけではないがね、あまり好かれなくなった。一種の擯斥ですね。それで蓮華寺の方にかがんでいて、それから後に目白の例の法林寺に行って、そこで焼け死んだがね。

【一同】へえ……。

【猊下】ええ、もう、何をやってもね、ちっともうまく行かんもんじやから、ヤケ酒のんで醇ぱらって、ランプをひっくり返しちやった。それで焼け死んだ。

【辻】 自分でひっくり返して……。

【猊下】ええ、自分で……。
 そんなわけですから、ことごとに応師に反感をもった。

【辻】 日應上人を怨嫉した罰だなそれは。

【猊下】應師が管長時代に、あの時代は各宗の順番管長だったからね。大石寺管長時代に七山の貫主を籠絡してね、そして宗制の改革をやった、というのは應師は前からね、勇道がこしらえておいた金をみんな七山の管長に分配しちやった。(笑声)だから應師は、ばかに歓迎されてね。そんなふうですからね、勇道はことごとに應師に反感をもった。それで勇道は要法寺でも、ちよっと撹斥の形だったんですからね。要法寺の寺でも喜んで金を頂戴していった。
 (笑声)そんなふうですから、勇道の半生の努力が一朝にしてフイになったんですから、怒るわけなんですよ。

【龍】 山川智應なんかは、全然、富士門の教えなんかは知らないわけですね。

【猊下】 そうです。富士門徒とのつきあいが全くない。


 【三大秘法抄の傅持は】

【龍】 三大秘法抄の真蹟の傅持や、ありかはどうでしようか。

【猊下】それはわからん。わからんけれどもですね、他で三大秘法抄は偽書だなんていうのはおかしいですね。三大秘法抄を引いてある古い本があるからね。

【小平】 その古いのは……。

【猊下】古いのは、やっぱり左京日教あたりの本に三大秘法抄があったように思う。

【池田】三大秘法抄の真筆が本山にきたということは、いっぺんもないわけですね。

【猊下】本山にきたというような文献はありませんね。中山にあれば文句ないんじゃあればですね、またあったということがあれば問題じゃない。そういう確かなものがないもんじゃから問題になっている。

【小平】 日興上人の寫しは……

【猊下】 興尊の寫しは他のものがたくさんありますけれどもあの中に入っていない。

【池田】太田金吾が死んでから持佛堂におられた日頂上人の手中に■って、日頂上人が日興上人の許へもってこられたということはないのですか。

【猊下】それは面白いね。ありそうなことだね。ありそうなことだけれども、そういうことを文書に書いたものはないね。

【辻】 文体についてとやかくいう人もありますね。

【猊下】文体はもう、もちろん、日蓮大聖人様のですよ。他にああいう文章は書けない。

【龍】 鍋冠り日親や、行學院日朝が、やはり三大秘宝抄を用いているというのは、あれは一体どうなんですか。

【猊下】日親やなんかが用いているというのは、別に特別な理由はないのですよ。

【龍】 日親は、三大秘法抄を寫して弟子に興えているわけですが。

【猊下】ええ、それで三大秘法抄を信じているわけですよ。

【龍】 行學院日朝は、彼の『立正安国論私抄』に、「立正と云うは廣く三大秘法を指すなり、安国の二字は殊更本門戒壇之を指すと習うなり、……霊山に似たる最勝の地を擇んで本門の戒壇を建立之あるべしと見えたる故に、安国の二字は本門戒壇の功用を顕わすと習うなり」と、このようにありますが。            

【猊下】それは、ただ学理的にいつただけでね、戒壇は建立しなくちやならないというほどじやない。

【小平】 録内ならよいが、録外だから信用できないというのもあるが……。

【猊下】皆の録内はですね、必ずしも、今の録内と、同じ編纂ぶりではない。

【小平】一番古い録外には、三大秘法抄が人つてないのですか。今の録外には大抵三大秘法抄は入れているんじやないですか。

【猊下】そう、身延の録外にはないようだね。(笑声)

【池田】ああそうですか。日順上人汐お書きになった本因妙口決に、三大秘法抄に云く「題目に二意あり……」等と引用されている。

 【国立戒壇建立の時は】


【小平】 先はども、ちよっと、出ましたんですが、最後の國立戒壇の義について。

【猊下】どういうことです。それは……。

【小平】 将来の想像について……。

【猊下】 将来の想像だから、ヨソウかな。(笑声)

【池田】 その前に、三大秘法抄の中の「懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」の中の大梵天王・帝釈天王を、印度とか支那とか朝鮮の、統帥とか内閣統理大臣とかいわれる意味は考えられないですか……。

【猊下】それは考えられない。大梵・帝釈天等というのは、日本佛教の王朝時代からというものはね、大分親しくなって外国の神様でなくなっている。そのくせでしてね、帝釈や大梵というのは、印度では佛教已前の神様ですからね。帝釈はいくらか小さいけれどもね。大梵なんていうのは印度の国をつくった神様ですからね。日本でいうと天照大神じゃ。

【池田】 はあ、

【猊下】 佛教の中で何かその神というようなものをつくると、必ずこの大梵・帝釈が出てきますからね。ですから、来下して云云なんていうことは、むしろですね、その神様が来下するんじやなくてね、印度寺人がくるとみてもいいでしょう。馬鹿に梵天・帝釈は日本佛教に親しみがありますね。不思議なくらいですね。各宗が分裂していますけれどもね、どの宗門だって梵釈ということをいっている。梵釈が一般の人の言葉の中に入っているんじや。格別佛教の信仰が深くないものにもですね、梵釈の用語はいろいろの場合に使われているでしょう。普通の仏法の教理以外にね。

【池田】 題目の流布とか、本尊の流布とかは実際考えられますし、話してもきていますが、時代によって、戒壇の建立の姿が変るであろうと先程いわれましたけれども、戒壇の流布という考えは考えられないものでしょうか。

【猊下】戒壇の流布は考えられんね。それは「時を待つべきのみ」の国立戒壇じやから……。

【池田】 国立戒壇は第一歩だからいいんですけれども、朝鮮とか支那の戒壇の建立という時期ですね、流れ方です。流布になれば、日本人が行って教化していって、建立するか……。

【猊下】それは考えられんね、考えられんというのは、今の支那佛教でも、朝鮮佛教でも、そういうようなことは、毛ほどもないからね。朝鮮など、例の山岳佛教でね、金剛山とか何とか有名な山があるけれどもそこに戒壇を建立するなとという意見は、どこにも吐いていないからね。つまり、支那でいうと、五台山なんていうのが、山の姿といい地理といい、そうとうに支那では有名じやけれどもね、そこに戒壇をどうこうというこどは殆んどないからね。各種の佛教はおいてあるけれどもね、戒壇の思想はないね。

【小平】 今はなくとも、将来日本に刺戟されてそういうことがおきてくる……。

【猊下】それは後の問題だ。

【龍】 これから題目が流布されていって……

【猊下】ええ、題目が流布され大聖人の教義が流布されるというと、その三大秘法がその中に含んでいるからね、どうしても、その授戒を求めるというような考えは必ずあるにちがいない。

【池田】 義の戒壇が先ず……。

【猊下】ただ国立の戒壇という言葉にはならんけれどもね。国でなくても、私の戒壇というのは、できるだろうと思う。それから又昔の佛教の歴史を考えるとね、支那の佛教佛教には時の皇帝が戒壇を建てたということは少いからね。戒壇はもっと、こう小部分にできた。

【池田】「霊山浄土に似たらん最勝の地」まあ最勝の地は日本は大日蓮華山でわかりますけれども、「時を待つべきのみ」の時ですが、その辺りにについて……。

【猊下】それは摂受によって時をつくるのもあれば、折伏によってつくるのもある。
観心本尊抄の末文なんかはですね、摂受・折伏の両方をあげてあるね。折伏のときは国家が武力でもって折伏して、摂受のときは僧侶がでておだやかに布教をする。両方の面をやっていくわけだね。
 両方の面になつているけれども、大聖人のすべての御書にあらわれているところのものは、まあ折伏になるね。布教の徹底するということは、摂受で布教の徹底というのは、まあないですからね。折伏一手ですその折伏はですね、極端な折伏は武力ですから、それは國王がやらなければならん。
それ以外には武力はないから。

【龍】 それは、つまるところ国家対国家ということになるんでしようか。

【猊下】ええ、国家対国家になる。

【辻】 賢王愚王になるわけだな……。

【池田】 国立の戒壇のできた場合の形式というか、原論は本山にあるものなんでしようか。

【猊下】ああ、戒壇をつくる趣意かね。それは本山にある。

【辻】 六萬坊が建つんですか。

【猊下】六萬坊はですね、それは、六萬恒河沙なんという数からくるというと、六萬恒河沙というのは、百億、千億どころじゃないです。大数を示したんじゃよ、ガンジス川の砂の数は数字で表せるかね、君。それで一恒河沙だもの、その六萬恒河沙の上の数をとつただけで、六萬坊などというのは、そりゃ夢だよ。ずつと測量して見給え(笑声)

【池田】 それから、もつたいない話だけれども広宣流布の暁のような気が、私どもにはするのでございますが、お肉牙の問題は、これはもう考えられない不思議な問題だと思います。

【小平】 お肉牙のことは、ずいぶん昔から……。

【猊下】そう、文献にのこっているのは、古くからのってるね。

【池田】本因妙抄と百六箇は、そうとう早くから引かれているんでしょうか。

【猊下】ええ、そうとう早くから引いてありますね。早くっから引いてありますけれども、本山では余り使わなかったね。

【池田】 佛法の住處という問題なんでございますが、「富士山に本門寺の戒壇を建立すべきものか」という戒壇建立の場合の住處という位置が、どういう位置か……。

【猊下】そうね、これは実際問題じゃからね。実際問題だけに、どうもわからんね。わからんけれども、そうなうてくるとね、実際に地理をもとにしなけりや仕様がないでしよう。それは、富士なら富士郡とすればね。富士郡の中の良い地理をしらべてやるんでしよう。

【池田】 皇居が必ず関係することがもう、きまっていますね。

【猊下】きまっています。それはですね、門徒存知抄始め明らかにいってあります。
天台山や平安城の例をひいていっていますよ。

【池田】 必ず佛法というと山に関係ありますね。

【猊下】 そうそう。

【池田】 何か、そこに由来があるんでしょうか。

【猊下】それはね、印度の佛教はですね、昔から市中におかない、その山がですね、秀麗な山におくということになっている。

【小平】 それじゃ、お疲れのところ、長い時間にわたってどうもありがとうございました。想定の項目も終りましたので、これで閉會に致します。

【一同】 どうもありがとうございました。
                  (以上)


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